Yaprak Dokumu(落葉) その9第68話シェヴケットの犯した背任横領罪のあおりを被ることになったアリ・ルーザ、妻と3人の娘達はと深刻な表情で話し合っている。肝心のシェヴケットの妻フェルフンデが出掛けたまま帰ってこないことで、ハイリエは特にひどく苛立っていた。 レイラが電話してみると、フェルフンデはもうじき帰るわ、と答えた。学校からアイシェも戻ってきた。フィクレットはネイイルの家にタフシンを迎えに行き、そこでアリ・ルーザ一家の置かれているたいへんな状況について初めて説明したのだった。 ネイイルが信じられないという表情で言った。 「シェヴケットはそんなことをする人間じゃないわ。何かの間違いでしょう。或いはあの女のせいじゃないの。あーあ、アリ・ルーザ・ベイとハイリエの苦しみはどこまで続くの・・・」 タフシンにアダパザールの母親からしばしば電話がかかってくる。タフシンはその都度ごまかしていたが、かえっておかしいと察したジェヴリエは、孫娘のデニズにもアリ・ルーザの家に電話して聞けとそそのかす。しかし、利口なデニズは「おばあちゃん、先方に失礼だよ」と取り合わない。 アリ・ルーザ家のサロンでは、おやつを食べながらアイシェが行った。 「あのねえ、この前学校で出会ったお父さんの昔のお友達のおばさんねえ、入院しているんだって。ヨウン・バクム(重体)なんだってよ」 アリ・ルーザははっとして末娘の顔を見た。 「あのねえ、お父さんもお母さんもずっと病院に行きっきりだって、あの子が言ってたよ」 息苦しい沈黙のひとときが過ぎた。 「アリ・ルーザ、あなた、見舞いに行ってやりたいのね」とハイリエはむっとして言った。 「ああ、見舞ってやりたい。知らなかった、重体だなんて・・・」 「ふん、行ってやればいいじゃないの。なにしろ、昔の友達なんだから」ハイリエは不満そうだ。 病院ではセヴダが点滴をつけられて横たわっている。今日明日の命と医師に宣告されて、息子のムラットが母親の手を握り締めて泣いている。 「ムラット、私の人生は本当に思うようにならなかったわ。辛いことばかりあとあと・・・でも、お前がいてくれてよかった。お前がいたから私は生きられたのよ。いとしい私の息子、どうか私がいなくなっても悲しまないで。いつでもお前やお前の大事な家族を見守っているわ・・・」 ムラットはたまらずに泣き崩れた。妻も戸口で顔を覆って泣いた。 とうとうジェヴリエは我慢しきれずにアリ・ルーザの家に直接電話した。レイラが出たが、ハイリエが首を横に振るので、母は頭痛で寝ていると断る。ハイリエはフェルフンデがじきに帰るといいながらいまだに戻らないのでさらに不機嫌だった。 その頃フェルフンデは自分でもお腹の子の将来を考えるとなす術もなく、1人船着場のベンチに腰掛けていた。ふと、母親に電話してみる気になった。 「お母さん? 私よ、フェルフンデ。どうしているの、お母さん。ちょっと声が聞きたかったの。ええ、私は元気よ。こちらはうまく行ってるから何も心配は要らないわ。お母さんも身体に気をつけてね。なかなか会いに行かれないけど勘弁してね」 うまく行っているから、と言いつつフェルフンデは嗚咽がこみ上げてくるのを抑え切れなかった。母に覚られないうち、と彼女は慌てて電話を切った。 ネイイルの家にいたタフシンとフィクレットは立ち上がった。今夜はアリ・ルーザ家に泊まり、タフシンだけは明日の朝アダパザールに帰って、フィクレットは数日留まることになった。 「セデフはどこに行ったのかしら、さっき出かけたきりで・・・」ネイイルはセデフに電話した。 セデフはバス会社の中継地で、シェヴケットを見送ったところだった。愛して止まなかったシェヴケットの最大の危機に、助けを求められたセデフはあらん限りの力を振り絞ってシェヴケットを守ってやりたかったのだ。バスが動き出し、車窓のシェヴケットに手を振りながらセデフは泣いて泣いて涙が枯れるほど泣いてしまった。 「セデフ、どこに行ったの。早く帰っておいで!」 「あ、お母さん。うん、いま遠くに行く友人を見送ったところなの。これから帰るわ」 電話を置いたネイイルの耳には、娘の涙声がはっきりとわかった。ネイイルははっと雷に打たれたようにあることを思い当たった。 アリ・ルーザ家のサロンでは、アリ・ルーザがタフシン相手に事件の経過を説明している。レイラはみんなにチャイを入れてきた。そこにフェルフンデが帰ってきた。姉妹達がみんな玄関に走った。ハイリエが怒りを爆発させていった。 「どこに行っていたの。シェヴケットと一緒じゃなかったの? 正直に言いなさい!」 「私、海岸にいたのよ」とフェルフンデ。 「何が海岸よ。みんなの苦労も知らないで、自分だけほっつき歩いていて。あんたって人はそんな女なのよ!」 フェルフンデは怒鳴っているハイリエをちらと一瞥するなり、自分の部屋に篭ってしまった。そのときまた、ジェヴリエが電話をかけてきた。今度はアリ・ルーザが出た。 「アリ・ルーザ・ベイ、何かお取り込みがあったんですか。ハイリエ・ハヌムはどうしていますか」 「あ、ご心配をおかけして。妻はちょっとそこまで散歩に出ていますので・・・」 電話を切ったジェヴリエは、 「アッラハッラー、1人は頭痛で寝ているといい、1人は散歩に出たという。この話の食い違いはきっと何か起こっている証拠だわ。こりゃひとつ調べてみるか~」と小躍りするのだった。 フェルフンデは部屋で病院の診断書をまた開いてみた。妊娠2ヵ月・・・彼女は途方にくれてため息をついた。そこに心配したレイラがノックして入ってきた。フェルフンデは慌てて診断書を隠し、何気ない風を装った。 レイラが出て行ってしまうと入れ替わりに電話がかかってきた。刑務所内のオウスからだった。 「フェルフンデ、いくら払ったら訴訟を取り下げるのを承知する? 金だよ、金。俺には金があるんだ、お前に払うくらいな金は・・・」 「な、なによ、いきなり。あんたなんかの頼み、聞くもんですか。馬鹿にしないで!」 フェルフンデはバチッと電話を切った。だがオウスはにんまり笑ってタラットのそばに行った。 「兄弟、うまく行ってるか?」 「タラット・アービィ、心配いりませんよ。金のことを言ったからきっと食いついてくるでしょう」 セデフが家に帰ってきたがうつむき加減で顔を見せようとしなかった。 「セデフ、お前、泣いてるんじゃないの? え、そうでしょ? どうしたの?」 ネイイルの詰問にセデフは顔を上げた。泣きはらした赤い目をしていた。 「ひぃっ、お前、目が真っ赤だよ。もしかして、見送った友人というのは・・・お前、シェヴケットと何かあったんだね、さあ、お言い!」 「お母さん、私、私・・・」 同じ頃アリ・ルーザ家の台所ではレイラが母に告げていた。 「フェルフンデ姉さん、私が入って行ったら何か書類を隠したのよ」 「ふうん、何だろうね。あの女、何をたくらんでいるのか・・・」 2階の廊下の端ではソファに座ったタフシンとフィクレットが相談している。 「フィクレット、お父さんさえ承知すれば、この家ではなく、私の農園を抵当に入れてもいいんだよ。その方が大きな貸付を得られるし、農業への貸付は、収穫時に返済すればいいんだ。それに返済するにあたっても私のほうへ払ってくれれば、苦しいときには少しは待つことも出来るよ。君から話してみたらどうかな?」 そのとき、2階に登ってきたハイリエがこの話を聞いてしまった。彼女は婿の優しい人柄に感動すると共に、大きな杖を見つけた思いだった。 「あなたがそう言ってくれるのは本当に嬉しいわ、タフシン。でも、父は絶対にそうしてください、とは言わないわ。話すだけ無駄だと思うけど」とフィクレット。 「そうかい。でも俺はいつでも力になるからね」 愛するフィクレットのためには骨身を惜しまぬタフシンだった。 ネイイルは目を泣き腫らしているセデフになおも説得を続けていた。 「お前、シェヴケットはお金を借りたいと言ったんだね。いくら貸したの?」 「貯金、全部下ろして・・・」 「そんな馬鹿な! お前これからどうする気なの?」 「お母さん、だって、シェヴケットが初めて私に助けを求めたのよ、初めて!」 「でも、相談するべき妻や家族がいるでしょうに!」 「シェヴケットは、ほかの誰よりも私を信頼したからよ、この私を!」 セデフは堪えきれずにテーブルに突っ伏して声を上げて泣き出した。いとおしい一人娘の叶わぬ恋。セデフの波打つ背中を見ながら、ネイイルは深いため息をついた。 アリ・ルーザ家では夕食の支度が整った。アリ・ルーザはシェヴケットに与えたバシュキョシェ(正面席)に座るのをためらったのち、やっと腰を下ろした。そのときレイラにヤマンから電話が来た。 「レイラ、どうして仕事に出てこなかったんだね?」 「ヤマン・ベイ、私はたいへん恥じ入っております。あなたに顔向けできません」 「レイラ、それとこれとは別問題だよ。この忙しい私をアシスタントなしで放り出す気かい? さあ、あしたも車を差し向けるから、きっと会社に来るんだよ。ところで、フェルフンデはどうしてる? 話している最中に気を失ったんだよ。救急車ですぐに病院に運んで貰ったんだが、病院から戻ったかい。あ、戻っているの? それならいいんだ。大事にするように言ってくれたまえ」 ヤマンの電話が切れたあと、すぐにフェルフンデをフィクレットが呼びに立った。アリ・ルーザはフェルフンデに聞く。 「失神して病院に運ばれたんだって? で、診察の結果はどうだったんだ?」 「特に何でもありません。ただ・・・私は妊娠していたんです。2ヵ月だそうです」 「え、妊娠。そうか、そうだったのか。それはおめでとう、フェルフンデ・ハヌム。すごく嬉しいよ」 サロンにいたみんなが喜んでフェルフンデに声をかけた。ハイリエは、さっきまで怒っていたのを忘れ、腰を下ろしたフェルフンデのそばに行き、「ジャヌム、クズム。おめでとう。何で言ってくれなかったの、こんな大事なことを」と髪や額に口づけし、肩を抱きしめた。その現金さに戸惑うフェルフンデ。 ネイイルの家ではなおも彼女がセデフを説得していた。 「アリ・ルーザ・ベイの家に行って、シェヴケットから連絡があったこと、どこへ行ったのかを話しなさい」 「でも、お母さん、誰にも言わないって約束したのよ」 「お前、シェヴケットは残念ながら大きな不正を働いて、家族や勤め先を大混乱に陥れているんだよ。その男の行く先を隠したりすれば、お前も大きな不正の片棒を担いだことになるのはわかっているね。そんなことお母さんが許さないわ。シェヴケットにこれ以上不正をさせないためにも、居所を突き止めて早く家族の元に帰し、罪を償わせることが先決よ。いいね、セデフ。お前がシェヴケットを大事に思うならそれが一番なのよ」 食卓を囲んだ全員にアリ・ルーザは静かに話した。 「シェヴケットはみんなをこうして悲しませている。だからみんなの前に出てこられないのだ。だが、この事態は我々が解決しなければならない。心を一つにしてシェヴケットの帰りを待とう。いいね」 フェルフンデは泣いた。 タフシンとフィクレットはネジュラの部屋で泊まることになった。アイシェがレイラの隣に行き、ネジュラは書斎のソファに寝具を置いてからフェルフンデの部屋に行った。 「フェルフンデ姉さん、そんなに悲しまないで。赤ちゃん、あんなにほしがっていたじゃないの。産むんでしょう?」 「産むかどうか、まだ決めていないわ。そもそもあんたの兄さんは子供なんかほしがっていなかったのよ。ああ、こんな、どうしていいかわからないような思いをするのは、人生で初めてだわ・・・」 フェルフンデはほんとうに手も足も出ない今の状態を思ってまた泣いた。 ネイイルはやっとセデフを承諾させた。寝室に来て、念を押す。 「明日、朝食のあとアリ・ルーザ・ベイの家に行って、シェヴケットのこと、ありのままに話すのよ」 「フェルフンデが私に怒るわ」とセデフは気が重い。 「仕方ないでしょ、あっちにいわず、お前に助けを求めてきたんだから」 アリ・ルーザ夫婦の寝室。ハイリエが言う。 「アリ・ルーザ、このうちを売らなくても、タフシンが農園を抵当にして貸付を受けようって、フィクレットに言っているのを聞いたのよ。ねえ、アリ・ルーザ、神様に感謝しなくてはね、こんなときに素晴らしい婿を持ったことを。返済も自分のほうへ徐々にしてくれればいいって、言うの。ねえ、そうして貰いましょうよ、アリ・ルーザ!」 突然、アリ・ルーザは目をむいて寝床に起き上がった。 「何を言うか、馬鹿も休み休み言えハイリエ! このわしがそんな図々しいことを婿に頼めるかっ。自分の息子が大罪を犯したというときに、そういう婿がいてくれるだけでも有難い。だから一層、自分達のことは自分達で解決しなくてはいけないのだ。二度とそんなことは考えるな、わしに言うな、いいかっ!」 アリ・ルーザの声は雷鳴のように家中に鳴り響いた。みんな息を潜めて聞いていた。 「ねえ、その話はしないほうがいいと言ったわけが分かったでしょ。父はああいう人なの。でもあなたの気持ちがわかって感謝してると思うわ」 「分かったよ、フィクレット。俺が言ったらお父さんのプライドを傷つけていたかもしれないね」 タフシンとフィクレット夫婦は肩をすくめて微笑みあった。 一夜明けてアリ・ルーザ家のサロン。フェルフンデが最後に起きてくる。 「あら、タフシン・アービィは?」 「もう出掛けたわ。朝早くアダパザールに戻ったのよ。子供達の学校があるし」 アダパザールの家。タフシンが戻ってくると、デニズがきびきびと弟達の学校の支度をしているところだった。 「あ、お父さん。お帰り。フィクレット姉さんは?」 「少し用事があってイスタンブールに残ったよ。おばあちゃんはどうしてる」 「うん、さっき洗面所で顔を洗っていたけど、そのあと見ないわ。どうしたのかしら?」 タフシンとデニズが家中を探したが、ジェヴリエの姿はなかった。近所やヌーリニサの家に電話をかけても来ていないという。慌てるタフシン。デニズと子供達を学校に送り届けると、すぐに彼は警察に行った。 その頃、なんとジェヴリエは張り切ってイスタンブール行きのバスに乗り込んでいたのだった。 レイラを迎えに会社の車が来た。アリ・ルーザとアイシェも乗せ、まずは学校に寄る。一方、ネイイルは前夜遅くまで考え込んでいて寝坊してしまった。セデフの部屋に行ってみると、もぬけの殻である。セデフは1人海辺の道を歩いていた。母親から電話が来たが、出なかった。セデフにはシェヴケットの行き先をアリ・ルーザに告げることが恐ろしく、決心のつかないままいたたまれずに家を出てきたのだった。 「セデフ!」 レイラの声がした。道端に車が止まり、レイラが窓から顔を出した。 「イスケレ(船着場)に行くなら送るわよ」 「ありがとう、今日はどこにも行かないのよ」 「そうなの? じゃあまたね」レイラの車は走り去った。波打ち際の石に腰掛けてセデフはひたすらシェヴケットにメッセージを書き送り、彼からの連絡を待つのだった。しかし、電話は無情にも何の音も立てなかった。胸がかきむしられるような一途な恋の悲しみを味わうセデフ・・・ 春まだ浅い海峡はポイラズ(冷たい北西の風)が吹き荒れて高い波しぶきを上げ、それは慟哭するセデフの心のうちに似てもいた。 アリ・ルーザはアイシェを学校に送り届けた。そこに、セヴダの孫を連れた近所の主婦がやってきた。彼女が子供を教室に送り込むのを待って、アリ・ルーザは訪ねた。 「セヴダさんは入院中とのことですが、どんな風かご存知ですか」 「ええ、昨日今日が峠だという話です。息子のムラット夫妻が詰めきりで付き添っています」 「知り合いなのでお見舞いに行きたいのですが病院はどこでしょうか」 「海岸通りの大きな病院です」 「あ、あそこですか。ありがとうございました。すぐに行ってみます」 アリ・ルーザは礼を言って学校を後にした。小さな花束を拵え、受付で聞いた病室に急ごうとエレベータに乗った。彼が6階に着くと、白布で覆われたストレッチャーを押した職員が乗り込むところだった。その後ろに泣き泣きついていく夫婦の姿が。 「ムラット、お母さんは・・・」 「少し前に息を引き取りました。あなたは?」 「お母さんの古い友達で、アリ・ルーザ・テキンという者です。君を子供の頃みたことがあります」 「アリ・ルーザ・ベイ。私もあなたのお名前は存じています・・・せっかく来ていただいたのにこんなことになりました。母は苦労のし通しでした・・・」 ムラットはアリ・ルーザの肩に顔を埋めて男泣きに泣いた。セヴダの苦労はもしかして自分との不本意な別れから端を発しているのではないか、とアリ・ルーザは深い嘆きに陥った。 家に帰ってきたセデフを説得し、ネイイルはアリ・ルーザの家に連れてきた。フェルフンデはセデフが来た理由を知ると、シェヴケットが妻の自分にではなく、セデフに連絡を取ったことにいたく傷ついた。彼女はちょっと外を歩いてくる、と言ってコートを引っ掛け、家を出た。 ネジュラの大学。庭で親友イペッキがネジュラに、ジェムとハンデが別れたことを告げた。ネジュラは折からやってきたジェムに問うた。 「私のせいであなた方が別れたの?」 「私のせいで、だと? それがどうした、ネジュラ。もう君と話をすることは何もないよ」 ジェムはむっとした表情でネジュラを見、不快そうに立ち去った。 アリ・ルーザ家のチャイムが鳴った。ハイリエやフィクレットが出てみると、アダパザールのジェヴリエが「シュープリーズ!」と言いながらニコニコ顔で玄関前に立っていた。 驚いたフィクレットがタフシンに電話をする。 「何だって!? 冗談じゃないよ、なんてお袋だ。警察に頼んでアダパザール中、探して貰ってるんだぞ」 フェルフンデは風にあおられるコートの前を掻き合わせながら坂道を下ってきた。冬に逆戻りしたような寒さである。坂道が曲がり角に来たとき、フェルフンデは道端の崩れた石垣に腰掛けてぼうっとしているアリ・ルーザを見つけた。思わず駆け寄った。 「どうしたんですか?」 「あ、フェルフンデさん。いや、ちょっと息苦しくなって・・・つい先ほど、古い友人が亡くなってしまったんだよ」 「まあ、バシュヌズ・サー・オルスン(お悔やみ申し上げます)。一緒に家に帰りましょう。さあ、私につかまって!」 アリ・ルーザの腕を取ってフェルフンデはもと来た坂道を登り始めた。そのとき、警察の車が2人を追い抜いていった。 ジェヴリエはアリ・ルーザ家のサロンで、居合わせたセデフが入れたトルコ・コーヒーを飲んでご機嫌だった。アリ・ルーザはいないし、ジェヴリエが来てしまったので、シェヴケットのことを言い出せないまま、ネイイルとセデフが席を立った。 ちょうどみんなが玄関に出たとき、チャイムが鳴って開けてみると3人の警察官が立っていた。 「シェヴケット・テキンさんの家ですね。シェヴケットさんに警察まで同行願いたいのですが。捜査令状もあります」 「あいにくシェヴケットの行方が2日前から分からないのです」 そのとき、セデフの電話が鳴った。見るとシェヴケットからである。どうしていいかわからずに足がすくんだセデフに「電話に出なさいよ、クズム」とネイイルが激を飛ばしたので、彼女は一旦電話を切り、慌てて門に続く石畳に飛び出して、掛け直した。 「シェヴケット、どこにいるの。いまあなたの家に警察官が来ているのよ」 彼女がそう言うのを、折からアリ・ルーザを連れて門の中に入ってきたフェルフンデが聞いてしまった。フェルフンデはついに独りぼっちになってしまったのを痛いほどに感じるのだった。 第69話 アリ・ルーザ家のサロンでは、みんながみんな、セデフの説明するシェヴケットの最後の姿について聞き入っている。 「シェヴケットは上着さえ着ていませんでした。クレジットカードもキャンセルしたとかで、ポケットにあったお金でやっと携帯の電話だけ買って私に掛けてきたんです。私は彼の事情は知っていました。会ったとき、アリ・ルーザおじさんに打ち明けて相談しなければいけないわ、と言ったんですが・・・」 「妻の私にどうして電話しないの」とフェルフンデがセデフを責めるように言った。 「それも言ったわ。でも彼は私に電話してきたのよ」 「それでセデフ、シェヴケットはどこに行ったのかね」とアリ・ルーザ。 「ボドルム行きのバスに乗ったんです。でも単に遠くへ行くためで、そこには留まらないそうです」 「クズム、それだけ? どうか包み隠さず話してちょうだい」とハイリエは懇願した。 フェルフンデはセデフの説明を聞き終わるとうめくように言った。 「シェヴケットが私と話をする気があれば私に掛けてくるはずだわ。私は彼にとってもう何でもないのよ」 彼女は、セデフが知らせたシェヴケットの新しい電話番号を書いた紙を、アリ・ルーザに差し出したあと、打ちひしがれて部屋にこもり、思い悩んだ末、結婚指輪を外して引き出しに仕舞った。 ネイイルがセデフを促して引き揚げようとすると、アリ・ルーザは彼らを引きとめ、セデフから電話を借りてシェヴケットに電話すると言った。 「何もセデフの電話を借りなくても、うちから電話すればいいのに」とハイリエが言うと、 「セデフの電話から掛ければ彼女だと思ってシェヴケットが必ず出るでしょうよ。そうでなく、家の電話だと知れば出ないかもしれないよ」と、ジェヴリエが言った。 アリ・ルーザは書斎に入った。 「シェヴケット。私だ。何も言うな。すぐに自首しろ。喋るな、何も聞きたくない。きちんと人間らしく、警察に自首するんだ。もし、自首しなければもう親でも子でもないぞ。いいな! もう一度言う。自首をせいと言っているんだ、分かったか!」 サロンにいたみんなが胸を突かれたほどアリ・ルーザの語調は激しかった。サロンに出てセデフに電話を返すと、アリ・ルーザは悄然として庭に出た。あてもなく裏庭やその付近を歩き回った。サロンに残されたみんなは言葉もない。今度こそネイイルはセデフを連れて帰っていった。 やがてその日も暮れてゆく。アリ・ルーザは戻って書斎に入ったがもとより仕事も手につかず、ぼんやりと腰掛けている。2階ではハイリエがレイラの部屋にこもってひそひそ話をし、ネジュラの部屋では彼女とフィクレットが額を寄せて話をしている。 フェルフンデが部屋から出てきたとき、サロンにいたのは宿題をやっている小さなアイシェだけだった。書斎を覗いてみると苦渋に満ちた表情のアリ・ルーザと目が合った。 「フェルフンデさん、ちょっといいかね」とアリ・ルーザは彼女を書斎に呼び入れた。 「私は・・・君に謝ります。勘弁してほしい。責められるべきは息子のはずなのに、誰かかわりに八つ当たりする相手を求めて君にひどいことを言ってしまった。心から後悔している。許してくれたまえ」 フェルフンデは思いがけないアリ・ルーザの言葉に一瞬戸惑ったが、やがて口を開いた。 「いいんです。どうか自分を責めないで下さい。みんながこんな状況に陥っているのだから仕方ありません。私は大丈夫ですから心配しないで下さい」 フェルフンデも舅から詫びられて涙ぐんでいた。フェルフンデの家族といえば、遠くにいる母を除いてはこの一家だけしかないのである。 彼女は一生懸命宿題をやっているアイシェを褒めてやってから2階に登っていった。 「お母さん、レイラ。どうしたの。お腹は空かないの? 下にはアイシェしかいないし・・・」 「ああ、フェルフンデ。アイシェには少し食べさせたから・・・」とハイリエが言い訳するように言った。 「それにしても夕食の支度をしなければ。私はお腹が空いたわ」 隣の部屋にいたフィクレットとネジュラにも声を掛けた。 「どうしたの、みんな。ヘンよ、こんなの。ちゃんとわれに返ってほしいわ」 フェルフンデはそれだけ言うと下に下りていった。2階の4人は顔を見合わせた。 「フェルフンデをご覧。こんなときにどうしてああ、落着いていられるの、あの女?」とハイリエ。 「指輪も外してしまっていたわね」フィクレットがいうと、ネジュラも頷いた。 「私も見たわ。どういうつもりかしら」 ネイイルの家。ジェヴリエがタフシンに電話であれこれアリ・ルーザ一家のことを告げている。アダパザールではタフシンが困り顔で相手をしていた。 「お袋、あんまりくちばしを突っ込まないほうがいいよ」 「だけどお前、銀行を相手にものすごい額を騙し取ってたんだそうだよ、フィクレットの弟は。あの一家はいまどん底で、どうやって弁償しようか困り抜いているんだから、きっとお前に助けを求めてくるよ。いいかい、タフシン、私の賢い息子よ、一銭たりともあいつらにお前の金を持って行かせるんじゃないよ。同情したらいけないよ。人のいいお前をどうたぶらかすか分かったもんじゃないよ、あいつらは」 「分かったよ、お袋。大丈夫だからさ、もう切るよ」 話し終わってタフシンは天を仰いで嘆息した。 「どうしたの、お父さん?」とデニズ。 「話す必要が生じたら、お前にも説明するよ。今じゃないが」 「分かったわ」 夕食を食べていた小学生の長男メフメットがデニズに言った。 「知りたければさ、おばあちゃんみたいにイスタンブールに行かなくちゃ」 弟ジャナルも負けずに言った。 「それと、ドアの前で立ち聞きしなくちゃ」 「こらーっ、お前達、何を馬鹿なことを言ってる!」 タフシンが慌ててたしなめたが、つくづくジェヴリエの性分には息子の自分でさえ困り果てているので、それ以上は叱れなかった。 ネイイルも食卓を整えながら、ジェヴリエの言動にはうんざりしていた。 「ああ、そうだわ、ネイイル!」 「叔母さん、もういいでしょ。さんざん言ったんだから」 「違うのよ、よく聞きな。例えばセデフの電話だよ。警察でシェヴケットが掛けた電話記録を調べるはずだ。そうなるとセデフの電話番号も当然表に出るわけよ。セデフ、お前も逃亡を助けた疑いで警察に捕まるかもしれないよ!」とジェヴリエは鬼の首でも取ったように高らかな声で言った。 「ひぃーっ、そうだわ、その通りよ。セデフ、もうシェヴケットに二度と電話しちゃあいけないよ! かかってきても受けちゃ駄目!」 ネイイルも震え上がった。 「お母さん、分かったわ・・・」 そうは言ったがセデフの胸には、四面楚歌に置かれたシェヴケットへの愛がなおも激しい高波のように押し寄せていた。 アリ・ルーザの家では女達が額を寄せ合って話し合っている。アリ・ルーザはもう2階の自室に引き取っている。弁護士のジャンに相談してみたら、と誰かが言ったので、フェルフンデはレイラを振り返って言った。 「そうよ、レイラ。ジャン・ベイに電話をかける絶好の口実が出来たじゃないの」 レイラはフェルフンデを睨んでやり返した。 「馬鹿なことを言わないでよ、フェルフンデ姉さん。じゃあ、掛けないわ」 「フェルフンデー」とハイリエがたしなめた。 「あら、そういえば昼間、アリ・ルーザ・ベイから聞きましたか。あの、昔のお友達だった女性が亡くなったんですってよ」 フェルフンデのその一言はハイリエの胸を刃物のようにえぐった。自分には言えないでいたのだ。ハイリエは急に良心の呵責に襲われて、2階のアリ・ルーザのそばに行き、心からお悔やみを言った。明日の午後にはセヴダの葬式も執り行われるはずである。 翌朝、フィクレットはネイイルのところに泊まった姑に朝の挨拶に行こうと家を出た。ちょうどセデフが勤めに行くために坂を下りてきた。 「おはよう、セデフ。シェヴケットから何か連絡あった?」 「いいえ、シェヴケットはあの電話もイプタル(キャンセル)したみたい。もうわからないわ」 セデフは寂しそうに言ってフィクレットと別れた。 フィクレットはジェヴリエに挨拶だけすると家に戻っていった。 新聞の朝刊には、銀行の横領事件が発覚して大きく載っていた。 ジェヴリエが食事中でもチャイを飲んでいても間断なくアリ・ルーザ家やフィクレットの悪口を言うのでネイイルはうんざりを通り越して腹立たしかった。 「5人も子供がいて、誰一人まともなのがいない。呆れたもんだよ、そう思わないかい、ネイイル。そこへいくと神様は私にたった1人しか恵んでくれなかったけど、あーあ、有難い、タフシンときたら非の打ち所のない息子だよ。そう思わないかい、ネイイル?」 「もちろんよ、タフシンは素晴らしいわよ。だけどほかの人のことをブドゥ、ブドゥ(悪口をぺちゃくちゃ)言うのは止めてよ、叔母さん」 そこへピンポーンとチャイムを鳴らしてアフメットが訪ねてきた。ネイイルは「お客がいるから」とろくに話もせずに断り、帰って行くアフメットにベランダから慌てて「あ・と・で」という顔つきで合図を贈った。すっかりご機嫌のアフメットは足取りも軽く出て行った。 刑務所の大部屋では、オウスが携帯でジェイダと話している。フェルフンデと話をつけるためにお前も協力してくれ、と言う。そこへ急に点検が行われることになった。 「オウス、早く携帯をしまえ」とタラットが怒鳴った。 「点検だ。切らなくちゃならない。じゃあ頼んだぞ」念を押してオウスは携帯を二段ベッドの鉄骨野中に隠した。 「この中に携帯電話や酒を持ち込んでいるやつがいるという知らせがあったので点検する。気をつけ! 休め。そのまま全員待て」 刑務官達はすばやく各二段ベッドを探り始めた。タラットのポケットには携帯が入っている。その携帯は、最後のボタン一つ押せば、ある番号に掛かるように準備されていた。頃合いを見はからってタラットが胸に手を当て、外からは見えないボタンを押した。リリリリリ・・・・刑務官はすぐ音のするベッドに駆けつけて証拠物件を押収し、ベッドの主である、もと腹心の男を捕まえ大部屋を出て行った。もちろんタラットの仕組んだことである。 アリ・ルーザ家ではハイリエが洗濯物を干すときにシェヴケットの残したセーターを抱きしめている。手伝っているフェルフンデの具合が悪そうだ。 「それはあんた、悪阻よ。2~3ヵ月で収まるわ」 フィクレットはオレンジジュースを飲むかとフェルフンデに聞くが、何もほしくないという。そこに2階から背広を着たアリ・ルーザが降りてきた。 「あ、お葬式だったわね、アリ・ルーザ。私も行こうかしら?」 「君の好きなようにしなさい」 「じゃ、着替えてくるからちょっと待ってて」 ジェムの父、ケマルが車の中で新聞を畳みながら息子に話をしている。 「いや、今となっては婚約が破談になってよかった。ジェム、今後一切あの娘にお前の周辺をうろつかせるな」 「わかっていますよ」とは言ったものの、ジェムの目の奥には消そうとすればするほどネジュラの面影が浮かんでいた。 アリ・ルーザとハイリエは葬式に出掛けて行き、フェルフンデは何をするでもなくサロンに腰を下ろした。ネイイルの家では彼女がパザールへ買い物に行く準備をしている。朝のうちフィクレットと一緒にパザールに行こうと約束したのだった。 「あたしも行くよ」 「ジェヴリエ叔母さん、いいからうちにいてよ。たくさん荷物を持って歩くなんておばさんには無理でしょう。テレビでも見ててくれない?」 「ふん、じゃあ行かないよ」 ネイイルが出掛けてしまうとジェヴリエはすぐに電話を取り上げた。いいことを思いついたのである。鬼のいぬまに何とやら、いつかは失敗に終わったけど今度こそタフシンには自分好みの嫁を、と彼女はまたレイハンを口説く気になったのである。 「もしもし、あら、ジェヴリエおばさん。いまヌーリニサ伯母さんは出掛けているの」 「いいのよ、あんたに用があるの。実はねえ、私はイスタンブールの姪のうちにいるのよ。フィクレットも実家に行ってて、タフシンと子供達の世話をお願いできないかしら」 「ああ、そのこと? ええ、今お宅に行くところだったのよ。今朝、フィクレットに頼まれたんで今晩のお食事は心配しないで下さいな」 「え? フィクレットがあんたに頼んだの?」 「そうなの。何かほかに御用はありますか?」 「ああ、いやいや、ありがと、よろしく・・・」 へん、また作戦失敗だワイ。ジェヴリエはがっかりして電話を置いた。 「それにしても、自分の亭主の世話をほかの女に頼むなんて、ヘンな女だよ、やっぱり・・・あのうちの人間はみんな狂ってる・・・」 ジェヴリエはぶつぶつとつぶやきながら頭を振って目を白黒させた。 大学の学部。担当教授の部屋にネジュラがやってきた。 「先生、今月の研究費の支払いを少し待っていただけるでしょうか」 「ああ、大丈夫だよ。そうだ、ジェム。そのプロジェクト、君のいいなずけに少し手伝って貰ったらどうかね」 教授が後ろを振り返った。そこにはジェムが・・・ネジュラは言った。 「先生、私達もう婚約していないんです」 「えっ、あ、あ、そうだったのか。それは失礼したね」 ネジュラは教授に一礼し、ちらりとジェムを見て彼にも「イイ・ギュンレル」と言いながら去って行った。ジェムは返事のタイミングを逃してしまったが、ネジュラの後姿をじっと見送った。 薄幸なセヴダの葬儀。ホジャ(僧侶)の読み上げるコーランの一節に人々は涙を流し、息子のムラットは母の好きだった赤いバラの花束を盛り上げられた土の上に置いて泣き崩れた。ムラットは葬儀のあと、「アリ・ルーザおじさん。母はよくあなたの話をしました。母が大事にしていたものを肩身として受け取っていただきたいので、家のほうにおいでください」と言う。 アリ・ルーザがハイリエを見ると、彼女も「伺います」と快くついてきた。トルコでも葬儀のあと参集した人々に食事や甘味、チャイを振る舞い、形見分けをしたりする。ムラットはアリ・ルーザを母の部屋に招じ入れ、古い紙箱に大事に仕舞ってあったセヴダの若き日の写真やアリ・ルーザの青年時代の写真を手渡した。ハイリエも嫉妬はせず形見を貰って2人は帰途についた。 ヤマンとジャンとレイラが昼食を取っている。ヤマンがその場からよその会議に直行したので、ジャンは帰ろうとするレイラを説得してコーヒーを取った。フェルフンデはたった1人で家にいる。そのとき玄関のチャイムが鳴った。出てみると、乳母車を押したジェイダだった。 「何しに来たの。ここにはあんたの用はないでしょ」 「フェルフンデ、お願い。オウスの話も聞いてやって」 フェルフンデがジェイダを締め出そうとしたとき、赤ん坊が泣き出した。 「ミルクの時間なの。悪いけど座って落ち着いて飲ませなければならないので、玄関先でいいけど中に入らせてくれない?」 結局フェルフンデは誰もいないこともあって、サロンにジェイダ親子を通し、ミルクのお湯を沸かしてやった。 「フェルフンデ、あなたに心からお願いします。自分のためじゃないのよ。この子を親なし子にしたくないの。どうか、訴訟を取り下げてくれないかしら。お礼はもちろん十分にするってオウスは言うのよ」 「ふうん、あんただってあの男にはずいぶんひどい目に遭ってきたのに、赤ん坊のためには許せるのね。赤ん坊のために生きていく決心なのね」 フェルフンデはジェイダの粗末な身なりを見た。大金持ちのヤマンの妻として何不自由なく生きられたはずが、オウスのために人生を狂わせ、いまひたすらこの生まれたばかりの息子をててなし子にしないために、訴訟の相手に頭を下げに来ているのだ。 フェルフンデは自分のこれからを思った。腹に宿った子の父親は、勤め先の銀行から大金を横領し賭博に狂ってしまい、指名手配されている身。これから先、子供を産んだとしても、自分がどうなるかは、火を見るよりも明らかではないか。 彼女はジェイダを見て悲しい決意をする。 「分かったわ。その赤ん坊のために私が訴訟を諦めればいいのね。タマム(OK)、オウスに電話させなさい。金額について話し合う用意があるわ」 「ありがとう、フェルフンデ。なんとお礼を言っていいか分からないわ。ありがとう、ありがとう」 ジェイダはうれし泣きに泣いて何度も礼を言った。 アリ・ルーザとハイリエは帰り道に途中で別れる。ハイリエが買い物に行きたいというので、アリ・ルーザは1人でアイシェを学校に迎えに行き家路についた。 同じ頃ネイイルとフィクレットはパザール(路上の市場)に出掛け、たくさん買い物をしてきた。 「自分の叔母ながらもう参っちゃうのよ。フィクレット、あなたよく我慢してるわね」 「うふふ、合わせているのよ、何とかね」 ネイイルと別れてフィクレットが門を入ろうとすると、ちょうど中から乳母車を押したジェイダが出てきた。 「ちょっと、何の用があってここに来たの。どんな顔をしてこの家の敷居をまたげるの?」 フィクレットはこの女のためにレイラの味わった悲劇を思い出すとむらむらと怒りがこみ上げる。ジェイダはだが、何も言わず立ち去って行った。フィクレットがチャイムを鳴らすと、フェルフンデがどこかに電話しているところだった。彼女は電話の相手を待たせて玄関を開けにきた。 「フェルフンデ! 何であの女を入れたの。うちの中へ上げたの?」 「玄関先で話したのよ。ちょっと用があって来ただけ」 「何ですって。許せないわ!」 「私いま電話中なの。ちょっと待ってて・・・もしもし、じゃあ、30分後にはそこに行くわ」 電話を切ってフェルフンデは急いで「悪いけど出掛けるの。話はあとにして」ともうさっさと支度をし外に出て行ってしまった。 そこにもう1本の電話がかかってきた。タフシンだった。アダパザールからイスタンブールに向かっていると言う。 「フィクレット、お袋を迎えに来たんだよ。お袋はともかく、君がいないと俺は・・・寂しくて駄目だ。もう少しで会えるね」 「うふふ、私もよ。待っているわ、タフシン」 刑務所のオウスにジェイダから電話がかかってきた。 「承知してくれたわ。訴訟取り下げの条件についてあなたから電話して、って言ってたわ」 「そうか。よくやってくれた、ジェイダ。これで親子で暮らせる日が来るぞ」 オウスはタラットのほうを向いた。 「うまく行きそうですよ、アービィ。シャバに出られるチャンスだ。いますぐに掛けてみますよ、あの女に」 オウスが電話するとフェルフンデの携帯は電源が切ってあった。 さる病院の産婦人科。フェルフンデに付き添って銀行を早退したギュルシェンがいた。 「もう一度よく考えて、フェルフンデ。子供が出来ればまたそこから新しい人生が始まるわ」 「ううん、もう決めたの。父親なしで女1人が子供を育てるのはどんなにたいへんか、私は自分の母の苦労を見て育ったのでよく分かるの。私がもし、ジェイダの腕の中の赤ん坊を見なかったらこんなに急に決心したかどうかは分からないわ。この子はもっと可哀想な赤ん坊よ。家族もなしに子供の親にはなれないわ。仕方ないわ、縁がなかったのよ」 ナースが迎えに来た。フェルフンデは堕胎手術に来たのだった。 アリ・ルーザが一足先に帰ってフィクレットの入れたチャイを飲んでいるとハイリエが帰ってきた。彼女はあちらこちらを歩き回ってやっと、自分が先日叩き割ったセヴダのレコードを見つけ出してきたのだった。 「アリ・ルーザ、悪かったわ。あの時は興奮して割ってしまったけど、やっと同じのが手に入ったわ。今度はいつ聞いてもいいのよ。いつでもセヴダさんを思い出していいのよ」 「ハイリエ・・・すまん、ありがとう」アリ・ルーザはハイリエを抱きしめた。 「ね、早速一緒に聴きましょう」 タフシンとジェヴリエがやってきたとき、アリ・ルーザ夫婦は書斎でうっとりとレコードを聴いていた。ジェヴリエは肝っ玉を潰して騒ぎ立てた。 「あれあれあれあれ、何ちゅううちだよ、ここは。こんな大事の最中に、夫婦してレコードなんか聴いちゃってていいのかい!」 ぽかんと口を開いたまま、ジェヴリエはアリ・ルーザ夫婦を見つめた。 病室から出たナースがギュルシェンに「お入りになってけっこうです」と言った。ギュルシェンが中に入ってみると、もう処置の済んだフェルフンデが麻酔からも覚めて天井を見つめている。彼女の目尻から涙がとめどなく流れていた。ギュルシェンも思わず泣いてしまった。彼女はフェルフンデのやつれた身体を抱きしめてやり、しばらくの間そうして悲しみを分かち合った。 アリ・ルーザ家の居間では、申し訳なさそうなタフシンを尻目に、ジェヴリエが相変わらずの「掻き回し屋」ぶりを発揮していた。 「えええ、それでどうしたの。フェルフンデは出て行ったまま帰ってこないっての? だって、連絡もしてこないの? こっちからは電話しないの? 嫁なんでしょう。掛けてみたらいいのに。え、掛けたけどずっと電源切ってある? そりゃあ、何か起こってるんだよ」 フィクレットが電話したがやはり通じなかった。 セデフが勤め帰りに坂道を登っていると、後ろから来たタクシーが追い抜き、アリ・ルーザ家の門の前で止まった。中から降りてきたのは、髪も乱れ、顔に生気のないフェルフンデと、その肩を抱くようにした友人のギュルシェンだった。 玄関では、アダパザールに帰るタフシンとジェヴリエが家族と別れの挨拶をしているところだった。みんなは青ざめたフェルフンデを見て驚き、サロンに逆戻りした。 「フェルフンデ、どこへ行ってたの。正直に言いなさい。今時分まで何をしてたの」とハイリエが詰問すると、フェルフンデはぽつんと答えた。 「やる必要のあることをやってきたのよ」 「何よ、それ! ちゃんと言いなさい、フェルフンデ!」 「アルトゥック・ハーミレ・ディリム(もう、私、妊婦じゃないわ)」 涙をいっぱいため、自嘲的に、突き放すようにフェルフンデは言った。 |